2008.04/30(Wed)
君と恋愛、海の色。16
#16
石富は手の空いた時間を見計らって、裏口から外に出て実家に電話をかけた。
「もしもし、俺だけど。おふくろ、実は……」
『一矢が来たんでしょ』
「え、あ、うん……」
母も、おそらく石富のところに訪ねて行くだろうと、予想していたようだった。迷惑かけてごめんなさいね、と謝ったあと、母は一矢が子供を連れて帰ってきてからのことを、ため息混じりに話してくれた。
といっても、大体は昨日一矢に聞いた通りの内容だったが、同じ話でも母親の口から聞くと、余計に兄が情けなく思えてくるから不思議だ。
『社長さんとケンカしたのだってね、あの子が遅刻ばかりして、ずる休みしたりするからなのよ。それを怒られてケンカになったっていうんだから……まったく』
子供じゃないんだから、と言いながら、母は盛大に、だが決して大袈裟とは云えないため息をついた。
石富の思った通り、社長とケンカした理由は、本当に呆れるようなものだった。素直に謝って改善すればよいものを、どうして一時の感情で辞めてしまったりするのだろう。一矢の性格はわかっているつもりだが、母の言うようにもう子供ではないのだ。それどころか、もうすぐ40歳がこようかという立派な大人である。ある程度自分を抑制する術を覚え、理性を保てるようにならないと、組織の中ではみ出してしまうことも、わからないわけではないだろう。
一矢の場合それ以前の問題の方が大きいような気もするけれど、せめて自分が悪い時くらいは、自覚して謝罪するくらいの素直さを、持ち合わせていてほしいと思う。
『私は出て行けとまでは言わなかったのよ。もしあんたんトコに行ったら、迷惑だって思ったから……なお君もいるっていうのに、ほんとごめんなさいね。でもねぇ、お父さんがめちゃくちゃ怒っててね。仕事見つけるまで家に帰ってくんな、って言ってるのよ。もうね、本当にすごかったわ。久しぶりにお父さんが関西弁で怒鳴り散らすの聞いたわよ』
「うわ……」
石富の父は、生まれも育ちも兵庫である。仕事の都合でこちらに来て、母と出会い結婚したそうだ。普段から物静かで、そうしゃべるタイプではなかったが、ひとたび怒ると人が変わったようにすごかった。
父は背も高くてがたいも良く、そのうえ強面で、今は年のせいでそこまで怖い印象はもうなくなったが、子供の頃は本当に父親が怖かった。見た目がそれで、さらに荒い関西弁をまくし立てて怒るものだから、いつも泣いて謝っていた。
一矢はそんな父が苦手で、中学、高校の頃は逃げるように家に帰ってこなくなり、結婚してからもそれは変わらなかったのだが、やはり今回、子供の世話の大変さには勝てなかったということか。だが母を頼って帰ってきたのはいいが、その結果甘えすぎて、父の逆鱗に触れてしまったわけだ。
年を取った父親には、少々のことではもう怒られないと、高を括っていたのかもしれない。可愛い孫もいるし、きっと毒気を抜かれているはずだ、単純な一矢の思考は、きっとそんな風に考え及んだのだろう。
『あんたとなお君には悪いと思ってるわ。だからね、働く気になって、ちゃんと職探す気があるのなら、帰ってきてもいいって伝えてくれない?面倒かけて悪いんだけど』
「ああ、わかった。言っとくよ」
じゃあ、と言って電話をきり、ホッと息をついた。
(よかった…とりあえず働く気にさせりゃあいいんだな)
1週間以内に仕事を決めるのは絶望的だと思っていたが、これならなんとか数日中に家に帰らせることができるかもしれない。だが問題は、父に怒鳴られビビッて逃げてきた、一矢自身の心の方かもしれないが。
(でもとにかく、早く帰ってもらわねーと……)
石富は昨夜の一人寝の寂しさを思い出して、シュンと肩を落とした。
昨年末、秋家の家で半同棲するようになってから最初にしたことは、ベッドをセミダブルに買い換えたことだった。石富は背が高く、それに細身というわけでは決してない。秋家とて、いくら小さいといっても男なのだし、シングルベッドに男が2人寝ると、やはり少々、窮屈だった。とはいえダブルベッドだと場所を取り過ぎるので、広すぎず狭過ぎずのセミダブルを購入したのだ。
それから毎晩、秋家とそのベッドで眠った。セックスしない時でも、あの愛しい体を腕に抱き、幸せな眠りつくのが、もはや石富にとっては日常のことだった。
だが、さすがに昨夜は一緒に眠るわけにはいかず、秋家が1人で寝室のベッドで眠り、石富は一矢と並んで、客間に布団を敷いて眠った。秋家との関係を一矢に知られるわけにはいかないので、仕方がないのはわかっているのだが、どうにも寝つきが悪く、今日は若干、寝不足気味だ。
(なおがいねーと眠れなくなっちまったのかな……)
1人暮らしをしていた時はむろんのこと、石富は基本的に1人で眠るのが好きだった。たとえ彼女であっても久美子であっても、同じ布団で一緒になんて寝苦しいことこのうえなく、腕枕なんて以ての外と云ってもいいくらい、人がすぐ側にいると眠れない体質だった。
だが、初めて秋家を抱き締めて眠った夜は、寝苦しさもなんの違和感もなく、不思議なほどよく眠れた。狭いシングルベッドで窮屈だったのだけれど、それ以上にリラックスできていたということだろう。
秋家を腕の中に抱き込み、髪の毛に鼻を押し付けるようにして目を閉じれば、落ちるように眠ることができる。秋家の匂いにはアロマ効果でもあるのかというくらい、石富にとってはこれ以上ない癒しだったのだ。
だからなのか、一緒に眠れなかった昨夜は、ひどく眠りが浅かった。隣に一矢がいたからか、なにやら気持ちの悪い、おかしな夢も見たし、いびきもうるさかった。音量的にはそこまでひどくはないのだが、いつもは秋家の小さな寝息だけしか聞いていない石富にとって、それは騒音ともいえた。
(ストレスたまるわ……)
一矢を泊める条件として、昼間は仕事を探しに外に出るように、ときつく言いつけてある。そして帰宅時間は夜の9時半以降で深夜12時まで、それより遅くなると鍵を閉める、とも言ってある。石富が住んでいる家とはいえ、あくまで家主は秋家なのだ。それくらいの遠慮と気遣いはしてくれ、と一矢に言うと、文句を言いながらではあったが承諾して、朝は3人一緒に家を出た。一矢は眠そうな目を擦りながらどこかに行ったが、ちゃんとハローワークに行ったんだろうか。
少し心配になったが、考えても仕方がないと一矢のことは頭から追いやった。
石富は携帯を尻ポケットに入れ、コックコートの胸ポケットからタバコの箱を取り出した。愛飲しているラッキーストライクを1本取り出し、100円ライタ−で火をつける。秋家にはずっと禁煙を勧められているが、未だその決意は固まらない。
家にいる時は、玄関から出た階段のところで吸うようにしている。秋家は『別に中で吸っていいのに』と言ってくれるが、副流煙を秋家に吸わせるのは嫌なので、絶対に外に出る。そのおかげで、以前より吸う量はだいぶ減ったのだけれど、止めるまでにはどうしても至れない。
15歳の時に一矢に教えられてからなので、もう人生の半分以上ニコチンと付き合っていることになるのだから、なかなかそれを断ち切るのも難しい。秋家には専門学校に行き始めてからだと言ってあるが、本当は中学3年の時からずっと、秋家ににおいがバレないよう、必死で気をつけていたのだ。
(でも、もうホントいい加減、禁煙すっか。なおタバコ嫌いなんだよな……そのうちキスするの、嫌がられるかもしんねぇ……)
吸わない人間には、タバコのにおいがすぐにわかるという。今は許してくれているけれど、それもずっとという保障はどこにもない。百害あって一利なし、の百害の中に、秋家に嫌われるかもしれない、というのも、入っているというわけだ。
短くなった害の塊を灰皿に押し付け、石富は裏口から厨房に入った。
「あ、剣二」
ちょうど秋家が、飲み終えたグラスをトレイに乗せて、食器洗浄機のところに来たところだった。
「おう。客大丈夫か?」
「うん、今は喫茶のお客さんだけだから。休憩した?」
「ああ。んでちょっと、おふくろに電話してきた」
「え、おばさんに?」
「うん。兄貴のこと聞いたら、やっぱりオヤジがぶちキレて、怒鳴り散らしたらしいわ。だからオヤジは怒ってるらしいんだけどな、でもおふくろは、とりあえず働く意志があるなら帰ってきていいって言ってんだ。それ兄貴に伝えといてくれって。でもなぁ、兄貴が素直に帰るかどうかなんだよなぁ……」
嘆息しながら、石富は秋家の持ったトレイからグラスを取り、口を下にして食洗機に並べていく。ストローやガムシロの空をゴミ箱に捨てながら、なんとなくトレイを持っている秋家の手を見つめた。
七分袖Tシャツから出ている手首は細くて白くて、青く透けて見える血管が異様にきれいだと思った。視線をそのまま上に移すと、首周りが広めのTシャツからのぞく、くっきりときれいな形の鎖骨に、手首と同じように細く白い首。そのうなじにかかるさらりとした黒髪の感触を、石富はよく知っている。
「でもよかったね。おばさんは、そんなに怒ってるわけじゃないんだね。……剣二?」
無意識にコクっと喉を鳴らして、思わず手を伸ばそうとした石富だったが、秋家の問いかけにハッとして、少し持ち上げていた手を下におろした。
今自分は、何をしようとしたんだ。
「あっ……ああ。おふくろは、そんなにはな……」
「とりあえず今日、お兄さんに話してみなきゃね」
秋家はそう言うと、じゃね、と言ってカウンターに戻って行った。
その背中を見つめると、なにやら胸がざわっとして、石富は慌てて視線を逸らす。そしてその視線を、秋家に触れようとしていた自分の手の平に落とした。
普通に話していただけで、特に意識などしていなかったはずだ。なのに秋家を見ていたら、無意識に触ろうとしていた。
確か以前にも、無意識に頬を撫でていたことがあったが、あの時はただ、心配なだけだった。心配で可哀想で、そこにおかしな邪念は一切無かったのだが――さっきは、明らかに『欲』があった。
まるで、痴漢しそうになって踏み止まった後みたいな、妙な羞恥と焦燥。
たった一日秋家に触れていないだけで、もう禁断症状が出たとでもいうのだろうか。
(やばい……なおに触らないと、何するかわかんねー……)
睡眠不足に欲求不満。これらを解消する鍵は、結局のところ、あの兄である。一矢が働く意志を持ち、きちんと就職してくれれば、全て丸く治まるのだが……そこまで考えた石富は、ふとあることを思い出した。
(確か、あいつんち……)
週末によく訪れる、1人の少女の顔を思い出し、石富はちょっと考えてみた。
(兄貴も一応、一級整備士だしな……聞くだけ聞いてみようか )
ちょうど明日は金曜日だし、おそらくえつみに会いに、夜に顔を見せるだろう。
石富はそう思い、少しだけ見えた希望に、ふっと口元を緩めた。
【More・・・】
翌日。石富は手の空いた時間を見計らって、裏口から外に出て実家に電話をかけた。
「もしもし、俺だけど。おふくろ、実は……」
『一矢が来たんでしょ』
「え、あ、うん……」
母も、おそらく石富のところに訪ねて行くだろうと、予想していたようだった。迷惑かけてごめんなさいね、と謝ったあと、母は一矢が子供を連れて帰ってきてからのことを、ため息混じりに話してくれた。
といっても、大体は昨日一矢に聞いた通りの内容だったが、同じ話でも母親の口から聞くと、余計に兄が情けなく思えてくるから不思議だ。
『社長さんとケンカしたのだってね、あの子が遅刻ばかりして、ずる休みしたりするからなのよ。それを怒られてケンカになったっていうんだから……まったく』
子供じゃないんだから、と言いながら、母は盛大に、だが決して大袈裟とは云えないため息をついた。
石富の思った通り、社長とケンカした理由は、本当に呆れるようなものだった。素直に謝って改善すればよいものを、どうして一時の感情で辞めてしまったりするのだろう。一矢の性格はわかっているつもりだが、母の言うようにもう子供ではないのだ。それどころか、もうすぐ40歳がこようかという立派な大人である。ある程度自分を抑制する術を覚え、理性を保てるようにならないと、組織の中ではみ出してしまうことも、わからないわけではないだろう。
一矢の場合それ以前の問題の方が大きいような気もするけれど、せめて自分が悪い時くらいは、自覚して謝罪するくらいの素直さを、持ち合わせていてほしいと思う。
『私は出て行けとまでは言わなかったのよ。もしあんたんトコに行ったら、迷惑だって思ったから……なお君もいるっていうのに、ほんとごめんなさいね。でもねぇ、お父さんがめちゃくちゃ怒っててね。仕事見つけるまで家に帰ってくんな、って言ってるのよ。もうね、本当にすごかったわ。久しぶりにお父さんが関西弁で怒鳴り散らすの聞いたわよ』
「うわ……」
石富の父は、生まれも育ちも兵庫である。仕事の都合でこちらに来て、母と出会い結婚したそうだ。普段から物静かで、そうしゃべるタイプではなかったが、ひとたび怒ると人が変わったようにすごかった。
父は背も高くてがたいも良く、そのうえ強面で、今は年のせいでそこまで怖い印象はもうなくなったが、子供の頃は本当に父親が怖かった。見た目がそれで、さらに荒い関西弁をまくし立てて怒るものだから、いつも泣いて謝っていた。
一矢はそんな父が苦手で、中学、高校の頃は逃げるように家に帰ってこなくなり、結婚してからもそれは変わらなかったのだが、やはり今回、子供の世話の大変さには勝てなかったということか。だが母を頼って帰ってきたのはいいが、その結果甘えすぎて、父の逆鱗に触れてしまったわけだ。
年を取った父親には、少々のことではもう怒られないと、高を括っていたのかもしれない。可愛い孫もいるし、きっと毒気を抜かれているはずだ、単純な一矢の思考は、きっとそんな風に考え及んだのだろう。
『あんたとなお君には悪いと思ってるわ。だからね、働く気になって、ちゃんと職探す気があるのなら、帰ってきてもいいって伝えてくれない?面倒かけて悪いんだけど』
「ああ、わかった。言っとくよ」
じゃあ、と言って電話をきり、ホッと息をついた。
(よかった…とりあえず働く気にさせりゃあいいんだな)
1週間以内に仕事を決めるのは絶望的だと思っていたが、これならなんとか数日中に家に帰らせることができるかもしれない。だが問題は、父に怒鳴られビビッて逃げてきた、一矢自身の心の方かもしれないが。
(でもとにかく、早く帰ってもらわねーと……)
石富は昨夜の一人寝の寂しさを思い出して、シュンと肩を落とした。
昨年末、秋家の家で半同棲するようになってから最初にしたことは、ベッドをセミダブルに買い換えたことだった。石富は背が高く、それに細身というわけでは決してない。秋家とて、いくら小さいといっても男なのだし、シングルベッドに男が2人寝ると、やはり少々、窮屈だった。とはいえダブルベッドだと場所を取り過ぎるので、広すぎず狭過ぎずのセミダブルを購入したのだ。
それから毎晩、秋家とそのベッドで眠った。セックスしない時でも、あの愛しい体を腕に抱き、幸せな眠りつくのが、もはや石富にとっては日常のことだった。
だが、さすがに昨夜は一緒に眠るわけにはいかず、秋家が1人で寝室のベッドで眠り、石富は一矢と並んで、客間に布団を敷いて眠った。秋家との関係を一矢に知られるわけにはいかないので、仕方がないのはわかっているのだが、どうにも寝つきが悪く、今日は若干、寝不足気味だ。
(なおがいねーと眠れなくなっちまったのかな……)
1人暮らしをしていた時はむろんのこと、石富は基本的に1人で眠るのが好きだった。たとえ彼女であっても久美子であっても、同じ布団で一緒になんて寝苦しいことこのうえなく、腕枕なんて以ての外と云ってもいいくらい、人がすぐ側にいると眠れない体質だった。
だが、初めて秋家を抱き締めて眠った夜は、寝苦しさもなんの違和感もなく、不思議なほどよく眠れた。狭いシングルベッドで窮屈だったのだけれど、それ以上にリラックスできていたということだろう。
秋家を腕の中に抱き込み、髪の毛に鼻を押し付けるようにして目を閉じれば、落ちるように眠ることができる。秋家の匂いにはアロマ効果でもあるのかというくらい、石富にとってはこれ以上ない癒しだったのだ。
だからなのか、一緒に眠れなかった昨夜は、ひどく眠りが浅かった。隣に一矢がいたからか、なにやら気持ちの悪い、おかしな夢も見たし、いびきもうるさかった。音量的にはそこまでひどくはないのだが、いつもは秋家の小さな寝息だけしか聞いていない石富にとって、それは騒音ともいえた。
(ストレスたまるわ……)
一矢を泊める条件として、昼間は仕事を探しに外に出るように、ときつく言いつけてある。そして帰宅時間は夜の9時半以降で深夜12時まで、それより遅くなると鍵を閉める、とも言ってある。石富が住んでいる家とはいえ、あくまで家主は秋家なのだ。それくらいの遠慮と気遣いはしてくれ、と一矢に言うと、文句を言いながらではあったが承諾して、朝は3人一緒に家を出た。一矢は眠そうな目を擦りながらどこかに行ったが、ちゃんとハローワークに行ったんだろうか。
少し心配になったが、考えても仕方がないと一矢のことは頭から追いやった。
石富は携帯を尻ポケットに入れ、コックコートの胸ポケットからタバコの箱を取り出した。愛飲しているラッキーストライクを1本取り出し、100円ライタ−で火をつける。秋家にはずっと禁煙を勧められているが、未だその決意は固まらない。
家にいる時は、玄関から出た階段のところで吸うようにしている。秋家は『別に中で吸っていいのに』と言ってくれるが、副流煙を秋家に吸わせるのは嫌なので、絶対に外に出る。そのおかげで、以前より吸う量はだいぶ減ったのだけれど、止めるまでにはどうしても至れない。
15歳の時に一矢に教えられてからなので、もう人生の半分以上ニコチンと付き合っていることになるのだから、なかなかそれを断ち切るのも難しい。秋家には専門学校に行き始めてからだと言ってあるが、本当は中学3年の時からずっと、秋家ににおいがバレないよう、必死で気をつけていたのだ。
(でも、もうホントいい加減、禁煙すっか。なおタバコ嫌いなんだよな……そのうちキスするの、嫌がられるかもしんねぇ……)
吸わない人間には、タバコのにおいがすぐにわかるという。今は許してくれているけれど、それもずっとという保障はどこにもない。百害あって一利なし、の百害の中に、秋家に嫌われるかもしれない、というのも、入っているというわけだ。
短くなった害の塊を灰皿に押し付け、石富は裏口から厨房に入った。
「あ、剣二」
ちょうど秋家が、飲み終えたグラスをトレイに乗せて、食器洗浄機のところに来たところだった。
「おう。客大丈夫か?」
「うん、今は喫茶のお客さんだけだから。休憩した?」
「ああ。んでちょっと、おふくろに電話してきた」
「え、おばさんに?」
「うん。兄貴のこと聞いたら、やっぱりオヤジがぶちキレて、怒鳴り散らしたらしいわ。だからオヤジは怒ってるらしいんだけどな、でもおふくろは、とりあえず働く意志があるなら帰ってきていいって言ってんだ。それ兄貴に伝えといてくれって。でもなぁ、兄貴が素直に帰るかどうかなんだよなぁ……」
嘆息しながら、石富は秋家の持ったトレイからグラスを取り、口を下にして食洗機に並べていく。ストローやガムシロの空をゴミ箱に捨てながら、なんとなくトレイを持っている秋家の手を見つめた。
七分袖Tシャツから出ている手首は細くて白くて、青く透けて見える血管が異様にきれいだと思った。視線をそのまま上に移すと、首周りが広めのTシャツからのぞく、くっきりときれいな形の鎖骨に、手首と同じように細く白い首。そのうなじにかかるさらりとした黒髪の感触を、石富はよく知っている。
「でもよかったね。おばさんは、そんなに怒ってるわけじゃないんだね。……剣二?」
無意識にコクっと喉を鳴らして、思わず手を伸ばそうとした石富だったが、秋家の問いかけにハッとして、少し持ち上げていた手を下におろした。
今自分は、何をしようとしたんだ。
「あっ……ああ。おふくろは、そんなにはな……」
「とりあえず今日、お兄さんに話してみなきゃね」
秋家はそう言うと、じゃね、と言ってカウンターに戻って行った。
その背中を見つめると、なにやら胸がざわっとして、石富は慌てて視線を逸らす。そしてその視線を、秋家に触れようとしていた自分の手の平に落とした。
普通に話していただけで、特に意識などしていなかったはずだ。なのに秋家を見ていたら、無意識に触ろうとしていた。
確か以前にも、無意識に頬を撫でていたことがあったが、あの時はただ、心配なだけだった。心配で可哀想で、そこにおかしな邪念は一切無かったのだが――さっきは、明らかに『欲』があった。
まるで、痴漢しそうになって踏み止まった後みたいな、妙な羞恥と焦燥。
たった一日秋家に触れていないだけで、もう禁断症状が出たとでもいうのだろうか。
(やばい……なおに触らないと、何するかわかんねー……)
睡眠不足に欲求不満。これらを解消する鍵は、結局のところ、あの兄である。一矢が働く意志を持ち、きちんと就職してくれれば、全て丸く治まるのだが……そこまで考えた石富は、ふとあることを思い出した。
(確か、あいつんち……)
週末によく訪れる、1人の少女の顔を思い出し、石富はちょっと考えてみた。
(兄貴も一応、一級整備士だしな……聞くだけ聞いてみようか )
ちょうど明日は金曜日だし、おそらくえつみに会いに、夜に顔を見せるだろう。
石富はそう思い、少しだけ見えた希望に、ふっと口元を緩めた。
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