2007.08/24(Fri)
あの日の君と風鈴の音2−3
chapter2−3
晴希はひどい寂寥感に襲われて、きっと自分が原因だと落ち込みまくった。しかし、想い続けていても報われることはないのだからと、聖一に会わなくなることで忘れようと決心した。何年か、何十年かたって、気持ちが吹っ切れた時に偶然会ったら、キスされたことを笑い話として言ってやればいい。そしたらきっと聖一も、笑ってくれるはずだから。
晴希は死にそうにつらい気持ちを抑えながら、そう心に決めた。
その後英子に聞いた話によると、聖一は有名な私立の進学校、W学園に入学したそうだ。それで成績は常にトップクラスで、うちに来られないのは勉強が忙しいからだという理由らしかった。しかし英子は、晴希に気になることを言ってきた。
『この前買い物の帰りに、会ったのよ、聖一くんに。声かけたんだけどね、会釈だけですまされちゃって。なんだか雰囲気変わってたわぁ。髪も伸ばしてて、大人っていうか男っていうか。あんな子だったかしらね』
英子は少し寂しそうに言って、苦笑を漏らした。
晴希はあまり街中をうろうろしたりしないので、今まで一度も聖一と偶然という形では会ったことがない。本当に、うちに来た時しか会ったことがないのだ。だから外での聖一を全く知らない晴希にとって、英子の話はいささかショックだった。
結局、晴希が中2、聖一が中3の正月に顔を見て以来、聖一にはこの1年4ヶ月の間、会うどころか姿を見かけることすらなかった。
それが今日、ウィンド・ベルで偶然会ったことは、晴希にとってはまったく予想もしていないことだった。ウィンド・ベルは晴希の家からなら自転車で5、6分ほどだけど、聖一の家からとなるとけっこう遠いはずだ。それに今日は平日で、学校だってあったし、聖一も制服を着ていた。そうなると――
(彼女、かな……)
あの彼女の家があの近辺で、送りにきたついでに喫茶店でお茶でも、のようなことだろうか。
(やっぱ優しいなぁ、しょう君……)
自分の家から遠いのに、デートの帰りにわざわざ彼女を家まで送ってくるなんて、本当に優しい。そして、たぶん、考えたくないけれど。
(あの子のこと、好きなんだね……)
だから付き合っているのだろうが、言葉として認識してしまうと、胸が痛くて耐えがたかった。
いつか聖一が、女の子といるところを目撃することもあるかもしれないと、ずっと思ってきた。だが、いざそれを目の当たりにした瞬間は、ショックで死ねそうなほどだった。あれがバイト中でなければ、石富がいなければ、晴希はその場から逃げ去っていたかもしれない。
聖一のことはあきらめたはずなのに、こうして本人に会ってしまうと、1年間の努力など全く意味がない。1年前のあの時より、また背が伸びてさらに大人っぽくなって、本当にかっこよかった。聖一を見た瞬間は、息が止まりそうなほどときめいて、固まってしまった。しかしその数秒後に、一気に地獄に落とされた。
とても可愛い女の子だった。あれだけかっこよくて頭も良くて、もてないはずがない聖一の、隣にいるのに相応しい美少女。制服の濃紺ブレザーが2人共同じだったから、同じ高校なのだろう。きっと彼女も、頭も育ちもいいに違いない。
(僕とはまったく大違い……)
顔もきれいだったけど、晴希よりも背が高くてスタイルも良かったし、なんともノーブルな雰囲気の女の子だった。聖一と2人で並んで立っているだけでも、さぞかし絵になることだろう。
一方晴希は、頭も育ちも良いとは言えない、小、中、高と、ずっと公立の庶民である。父の康夫は普通のサラリーマンだった。過去形なのは、今年の3月に定年退職したためだ。実のところ、晴希がアルバイトをしているのも、父の定年退職が大きな理由でもある。
晴希は今年高校にあがったばかりで、3年後には貴希も高校に入学する。2人が大学まで行こうと思ったら、これからかかる教育費は相当なものになるだろう。これからお金がかかるという時に、康夫は定年で仕方ないとはいえ退職し、年金は65歳までもらえない。晴希にだって家計が苦しいとまではいかずとも、楽ではないことくらい想像できる。
勤続40年だったらしいので、退職金もそこそこはあったのだろうけど、それは晴希たちが大学に行く費用だと言って、英子はパート勤めに出ている。ならば晴希だって、自分の小遣いや携帯代くらいは稼がなければと、バイトを決めたのだった。できれば家にいくらか入れようと思ったけれど、それならば貯金をしなさいと、英子に断られた。
退職してからの康夫は、英子がいない間主夫のようなことをやっていて、最近では夕食が父の手作りだったりするから妙な気分になる。まずくはないのだが、やはり英子が作る方がはっきり言っておいしい。それでも父なりに何かしたいのだろうから、料理の感想を言ってあげたりすると、勉強しておくと言って笑っている。
その康夫が前妻との離婚後、男手一つで育てた一人息子、晴希の兄であり聖一の父である孝幸はというと、IT関連の会社で高いポストに身を置くエリートである。要するに聖一は坊ちゃんで、名門私立に行くのも当然の話なのだった。もっとも、頭も良くなければ入れないのではあるけれど、授業料は半端ではないらしい。
頭脳明晰でハイソな御子息、御令嬢が通うW学園は、県内でも有名だ。そんな学校に通っている聖一と、そしてあの少女。晴希なんかが入る余地など、いっそナノ単位でありはしない。
(ほんとーに僕と大違い……。っていうかそれ以前に僕は……)
男、だから。
もしかしたら、晴希が女の子だったら、少しは希望も持てたかもしれない。それがほんの、蜘蛛の糸ほどの細い光だとしても、奇跡は起きたかもしれない。晴希が叔父さんじゃなく、叔母さんだったなら。
だが、男の晴希には、その一筋の光すらない。そこはただ真っ暗な暗闇に包まれていて、晴希はそこで、光の中にいる聖一とあの少女を、見ていることしかできないのだ。
晴希はもう、聖一に触れてもらえることはないだろう。だがあの少女は、聖一に触れることも、触れてもらえることも、当然のこととして許されている。
「………っ」
ひどい嫉妬と憎悪に、胸が焼けそうだった。そしてそんな自分が、とても醜く汚らわしくて、どうしようもなくいやになる。あの少女に、晴希の醜い嫉妬など、向けていいはずがないのに。
一度だけでも、ただの気紛れでも、聖一がキスしてくれたことを大事に胸にしまって、生きていこうと決めたではないか。今はどんなに苦しくても、きっといつか思い出になる時がくるはずだからと、時間が忘れさせてくれると、そう思ってきたのだ。
きっと聖一も、晴希があの店で働いていることを知ったのだから、もう来ないだろう。晴希に会うのがいやで、家にも来なくなったのだ。だからもう、ウィンド・ベルには二度と来ない。
「うぇ……ふ、くぅ……」
晴希は泣いた。手で口を押さえて、声を殺してぼろぼろ泣いた。
悲しいのか、悔しいのか。それとも、怒りなのか。1年間我慢してきたものを、吐き出すように、ただじっと、泣き続けた。そして、忘れようと思った。
今晩泣いて、もしかしたら明日も、明後日も泣くかもしれない。それでも、泣いて全てを流してしまえるなら、そうしようと思った。きっともう、はずせない親戚行事でもない限りは、会うこともない。聖一は晴希の家には、来ないのだから。
いつか、聖一も結婚する時が来るだろう。その時、気持ちの整理がついていたら、出席すればいいし、まだできていなければ、理由をつけて行かなければいい。
晴希は一生、結婚はできそうにないけれど、聖一は将来有望な人間だ。晴希の気持ちは、聖一にとっては迷惑でしかない。絶対に、知られてはいけない。
忘れることができる、できないは、関係ないのだ。晴希はこの気持ちを、殺さなければならない。例えどんなに自分が苦しくても、そうするしか、ないのだから。
だから、今は泣く。どんなに泣こうが絶望しようが、人間は呼吸して食べてさえいれば、死にはしないのだ。
(こういう好きじゃなければよかったのに……)
自分にこんな性癖を与えた神を、恨めしく思う。そうするしか、形のないものにスケープゴートになってもらうしか、晴希には他に、縋るわらすらなかった。
【More・・・】
そして聖一は高校に入学してからというもの、一切晴希の家に顔を出さなくなった。孝幸と真紀恵と、聖一の弟の勇二(ゆうじ)は来るけれど、その中に聖一の姿はなかった。晴希はひどい寂寥感に襲われて、きっと自分が原因だと落ち込みまくった。しかし、想い続けていても報われることはないのだからと、聖一に会わなくなることで忘れようと決心した。何年か、何十年かたって、気持ちが吹っ切れた時に偶然会ったら、キスされたことを笑い話として言ってやればいい。そしたらきっと聖一も、笑ってくれるはずだから。
晴希は死にそうにつらい気持ちを抑えながら、そう心に決めた。
その後英子に聞いた話によると、聖一は有名な私立の進学校、W学園に入学したそうだ。それで成績は常にトップクラスで、うちに来られないのは勉強が忙しいからだという理由らしかった。しかし英子は、晴希に気になることを言ってきた。
『この前買い物の帰りに、会ったのよ、聖一くんに。声かけたんだけどね、会釈だけですまされちゃって。なんだか雰囲気変わってたわぁ。髪も伸ばしてて、大人っていうか男っていうか。あんな子だったかしらね』
英子は少し寂しそうに言って、苦笑を漏らした。
晴希はあまり街中をうろうろしたりしないので、今まで一度も聖一と偶然という形では会ったことがない。本当に、うちに来た時しか会ったことがないのだ。だから外での聖一を全く知らない晴希にとって、英子の話はいささかショックだった。
結局、晴希が中2、聖一が中3の正月に顔を見て以来、聖一にはこの1年4ヶ月の間、会うどころか姿を見かけることすらなかった。
それが今日、ウィンド・ベルで偶然会ったことは、晴希にとってはまったく予想もしていないことだった。ウィンド・ベルは晴希の家からなら自転車で5、6分ほどだけど、聖一の家からとなるとけっこう遠いはずだ。それに今日は平日で、学校だってあったし、聖一も制服を着ていた。そうなると――
(彼女、かな……)
あの彼女の家があの近辺で、送りにきたついでに喫茶店でお茶でも、のようなことだろうか。
(やっぱ優しいなぁ、しょう君……)
自分の家から遠いのに、デートの帰りにわざわざ彼女を家まで送ってくるなんて、本当に優しい。そして、たぶん、考えたくないけれど。
(あの子のこと、好きなんだね……)
だから付き合っているのだろうが、言葉として認識してしまうと、胸が痛くて耐えがたかった。
いつか聖一が、女の子といるところを目撃することもあるかもしれないと、ずっと思ってきた。だが、いざそれを目の当たりにした瞬間は、ショックで死ねそうなほどだった。あれがバイト中でなければ、石富がいなければ、晴希はその場から逃げ去っていたかもしれない。
聖一のことはあきらめたはずなのに、こうして本人に会ってしまうと、1年間の努力など全く意味がない。1年前のあの時より、また背が伸びてさらに大人っぽくなって、本当にかっこよかった。聖一を見た瞬間は、息が止まりそうなほどときめいて、固まってしまった。しかしその数秒後に、一気に地獄に落とされた。
とても可愛い女の子だった。あれだけかっこよくて頭も良くて、もてないはずがない聖一の、隣にいるのに相応しい美少女。制服の濃紺ブレザーが2人共同じだったから、同じ高校なのだろう。きっと彼女も、頭も育ちもいいに違いない。
(僕とはまったく大違い……)
顔もきれいだったけど、晴希よりも背が高くてスタイルも良かったし、なんともノーブルな雰囲気の女の子だった。聖一と2人で並んで立っているだけでも、さぞかし絵になることだろう。
一方晴希は、頭も育ちも良いとは言えない、小、中、高と、ずっと公立の庶民である。父の康夫は普通のサラリーマンだった。過去形なのは、今年の3月に定年退職したためだ。実のところ、晴希がアルバイトをしているのも、父の定年退職が大きな理由でもある。
晴希は今年高校にあがったばかりで、3年後には貴希も高校に入学する。2人が大学まで行こうと思ったら、これからかかる教育費は相当なものになるだろう。これからお金がかかるという時に、康夫は定年で仕方ないとはいえ退職し、年金は65歳までもらえない。晴希にだって家計が苦しいとまではいかずとも、楽ではないことくらい想像できる。
勤続40年だったらしいので、退職金もそこそこはあったのだろうけど、それは晴希たちが大学に行く費用だと言って、英子はパート勤めに出ている。ならば晴希だって、自分の小遣いや携帯代くらいは稼がなければと、バイトを決めたのだった。できれば家にいくらか入れようと思ったけれど、それならば貯金をしなさいと、英子に断られた。
退職してからの康夫は、英子がいない間主夫のようなことをやっていて、最近では夕食が父の手作りだったりするから妙な気分になる。まずくはないのだが、やはり英子が作る方がはっきり言っておいしい。それでも父なりに何かしたいのだろうから、料理の感想を言ってあげたりすると、勉強しておくと言って笑っている。
その康夫が前妻との離婚後、男手一つで育てた一人息子、晴希の兄であり聖一の父である孝幸はというと、IT関連の会社で高いポストに身を置くエリートである。要するに聖一は坊ちゃんで、名門私立に行くのも当然の話なのだった。もっとも、頭も良くなければ入れないのではあるけれど、授業料は半端ではないらしい。
頭脳明晰でハイソな御子息、御令嬢が通うW学園は、県内でも有名だ。そんな学校に通っている聖一と、そしてあの少女。晴希なんかが入る余地など、いっそナノ単位でありはしない。
(ほんとーに僕と大違い……。っていうかそれ以前に僕は……)
男、だから。
もしかしたら、晴希が女の子だったら、少しは希望も持てたかもしれない。それがほんの、蜘蛛の糸ほどの細い光だとしても、奇跡は起きたかもしれない。晴希が叔父さんじゃなく、叔母さんだったなら。
だが、男の晴希には、その一筋の光すらない。そこはただ真っ暗な暗闇に包まれていて、晴希はそこで、光の中にいる聖一とあの少女を、見ていることしかできないのだ。
晴希はもう、聖一に触れてもらえることはないだろう。だがあの少女は、聖一に触れることも、触れてもらえることも、当然のこととして許されている。
「………っ」
ひどい嫉妬と憎悪に、胸が焼けそうだった。そしてそんな自分が、とても醜く汚らわしくて、どうしようもなくいやになる。あの少女に、晴希の醜い嫉妬など、向けていいはずがないのに。
一度だけでも、ただの気紛れでも、聖一がキスしてくれたことを大事に胸にしまって、生きていこうと決めたではないか。今はどんなに苦しくても、きっといつか思い出になる時がくるはずだからと、時間が忘れさせてくれると、そう思ってきたのだ。
きっと聖一も、晴希があの店で働いていることを知ったのだから、もう来ないだろう。晴希に会うのがいやで、家にも来なくなったのだ。だからもう、ウィンド・ベルには二度と来ない。
「うぇ……ふ、くぅ……」
晴希は泣いた。手で口を押さえて、声を殺してぼろぼろ泣いた。
悲しいのか、悔しいのか。それとも、怒りなのか。1年間我慢してきたものを、吐き出すように、ただじっと、泣き続けた。そして、忘れようと思った。
今晩泣いて、もしかしたら明日も、明後日も泣くかもしれない。それでも、泣いて全てを流してしまえるなら、そうしようと思った。きっともう、はずせない親戚行事でもない限りは、会うこともない。聖一は晴希の家には、来ないのだから。
いつか、聖一も結婚する時が来るだろう。その時、気持ちの整理がついていたら、出席すればいいし、まだできていなければ、理由をつけて行かなければいい。
晴希は一生、結婚はできそうにないけれど、聖一は将来有望な人間だ。晴希の気持ちは、聖一にとっては迷惑でしかない。絶対に、知られてはいけない。
忘れることができる、できないは、関係ないのだ。晴希はこの気持ちを、殺さなければならない。例えどんなに自分が苦しくても、そうするしか、ないのだから。
だから、今は泣く。どんなに泣こうが絶望しようが、人間は呼吸して食べてさえいれば、死にはしないのだ。
(こういう好きじゃなければよかったのに……)
自分にこんな性癖を与えた神を、恨めしく思う。そうするしか、形のないものにスケープゴートになってもらうしか、晴希には他に、縋るわらすらなかった。
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